MADE IN JAPAN!怒涛のヨーロッパ旅行編

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1997/09/13 DAY5:ピサそしてフィレンツェ

今日はまた列車でピサに行く予定。7時過ぎにホテルを出てドゥオモ駅からミラノ・セントラル駅へ。とりあえず特急でフィレンツェに行き、そこから乗り換えでピサに向かう計画。事前にホテルで調べておいた列車に乗り込もうとすると、駅員のオッサンが「Reservation only, Reservation only」と繰り返す。ICEとかECはユーロパスさえあれば、たいてい予約無しで乗れたと思ったのだが、どういう訳か尋ねても、このオッサンは英語は「Reservation」の一言しか話せないらしく全然らちが明かない。参った。

しゃあないので、べろちゃんの持ってたトマス・クックの時刻表を見ると、確かに予約必須の印がついてる。全然気が付かなかった。しかしどうやって列車予約するのか。そう言えば駅1階になんだか列の出来てる窓口があったなあ、と思い出して戻ってみると、どうやらこれみたいだ。列に並んで待ってると、3人くらい先の、どうも日本人らしい女性がなにやら窓口でもめている気配。なんだかヤな雰囲気だなあ。

しかし順番がきて、フィレンツェまで特急の予約を2枚、と言うと何事もなく特急券をくれる。やはりユーロパスだけでは駄目で、追加料金が必要だった。ただし予定していた8時の特急は満席なので9時の便だと言う。まあ、しゃあないですな。しばらく駅でブラブラして9時の便に乗り込む。

ミラノからフィレンツェはだいたい3時間の道のり。列車は全席指定のなかなか奇麗な車両だ。どこといって変わりないイタリアの田舎風景の中をどんどん走ってフィレンツェに到着。ちょうど昼時だが、あまり時間が無いので、駅構内のマクドナルド(そうそう、こんなところにもあるんですね)でチーズバーガーを頼む。

今日はここからピサに斜塔を見に行こうという算段。ピサ行きの列車は10分遅れで出発。問題は、JALのペラペラなガイドブックにはピサなんて載ってないから、はたして駅からどれくらいの距離にあるのか分からい。歩ける距離なんだろなあ。と思ってたら、なんとべろちゃんがフィレンツェの駅でピサの地図を購入していた。偉い! ところが、外国人向けの英語の地図でも買えばよかったのに、イタリア語の地図なのでさっぱり分からない。やっぱり偉くない! けっ。

英語では、ピサの斜塔は、「The Leaning tower」と言うのだが、イタリア語の地図ではどれなのかさっぱり分からない。なにもこんなまじめくさった地図なんか買わなくても、観光用の絵地図でよかったんだよなあ。とくさすと、べろちゃんはちょっとご機嫌ななめになってしまった。わははは。しかし、町の北側に大きなドゥオモ(教会)があるので、まあ多分その辺だろうと当て推量。

ほぼ1時間でピサの駅に到着。駅から傾いたのが見えるかと思ったが、それはちょっと甘かった。ただし、駅から出ると、ちゃんと斜塔の絵文字と矢印が書いてある看板が見えたので、そっちの方向へと歩き出す。ヨーロッパの古い都市はどこでもそのようだが、道が碁盤の目ではなく、放射状に広がっている為、慣れないと非常に方向を見失いやすい。しかし何組かの観光客とおぼしい夫婦ものが歩いて行ってるので、その後をついてゆく方針に変更。

ところが、案の定、2組みとも迷ったようで、しまいにはお互い違う方向に歩き出す。こらこら、我々を先導せんかい、と言いたかったが、まあ、しょうがないので、こっちも地図と首っ引きで、まずは川を横切る橋をどこで渡ればいいかを検討。たまには方角をべろちゃんにまかせて、後をついて行く事にした。しかし、どうも駅から遠ざかる時に、放射状の道の選択を誤ったか、かなり西に来ているようだ。ああでもないこうでもないと、地図を見ながら40分近く歩き回ってやっと到着。

強いひざしの中に、真っ白な斜塔が、本当にどえらく傾いて立ってるのはまさに奇観と言うしかない。塔だけが立ってるのかと勝手に思っていたが、ちゃんと立派な教会の建物が2棟並んだ横に、塔がひとつだけ傾いている訳だ。昔は塔の上まで登れたそうだけど、年々傾きが増加しているそうで、今は塔の周りは鉄の柵に囲まれて立ち入り禁止になっており、補強工事が続いているようだ。傾いている側の反対には、傾きを防止する為かコンクリートのブロックを塔の土台に積み上げている。

実際には、年々傾いているというのは観光客を引っ張るための宣伝で、倒れやしない、という話もあるようだが、工事をしているところを見ると、やっぱり悪化してるんでしょう。もう我々は、この目で見たから、あとは早く倒れてほしいなあ。倒れたら自慢するわけです。「倒れる前のピサの斜塔をこの目で見た事があるんだ」ってね。まさか再建する時に、わざと傾けては立てないだろうから、倒れたらもう見れません。まあ、遠からず倒れるでしょう。あ〜、見といてよかった。わははh。

帰りは別の道からピサの駅まで。石畳と石作りの建物が並ぶ古い町並みを見物しながら歩く。やっぱり最初からこっちの方向のほうがずっと早かったなあ。ま、いいけどさ。ピサで電車を待つ間、本日の予定についてべろちゃんと話す。彼は疲れたからそのままミラノに帰ると言うので、フィレンツェから別行動とする事にした。

また電車に1時間ゆられてフィレンツェの駅に到着。べろちゃんと駅で別れて中心街のほうに歩く。フィレンツェは古い町だけあって、道が狭い。だけどスクーターと自動車がわらわらと走っており、危険だし、排気ガスでとても空気が悪いような気がする。ここでも広場にあるドゥオモのある広場を目指す。どこに行っても街の中心は大きな古い教会。ローマがキリスト教を国教として以来の長い長い歴史を感じる時だ。

ここのドゥオモもまた立派なものだ。少し南に折れてシニョリーア広場に出ると、ルネッサンス期の彫刻があちこちにそびえたっている。有名なのは、サビーニ女性の略奪が有名なんだってさ。ウフィッツィ美術館は大変な長蛇の列。半数以上は日本人の団体と見た。しかも列がなかなか進む様子がないのでやっぱりあきらめる。また来るとすっか。いつになるかはわからないけど。

その後うろうろとフィレンツェ市内を歩く。こういう中世がそのまま残った古い街に住むってのはどんな気分のものだろうか。帰ったら塩野七生のエッセイでも読み直すか。街の様子もだいたい分かったので、中央駅からまたミラノ行きに乗り込む。ミラノに帰る途中で気づくと空には奇麗な満月がかかっている。9時半に駅に到着。ホテルのべろちゃんに電話したけどいないようだ。地下鉄で、ドゥオモ駅に戻るが、夕飯を食べてない。ホテルの近くに中華料理があったので、まあイタリアでチャイニーズもいいかと寄る事にする。もう10時だが、店はイタリア人でほとんど満員。みんな午睡するらしいから、夜まで飲んで騒げるんだよなあ。スイスのチャイニーズより数段マシ。

店を出てブラブラとまたドゥオモ広場へ。10時過ぎなのに、広場には音楽が流れ、人も絶えない。教会に向かって立っているビスコンティ公の騎馬像の台座に腰をおろして、満月に光る巨大な教会をただ放心して眺めていた。当時の人がどんな想いでこの建物の前に立ったか、もはや知るすべはないが、営々と積み重ねられた膨大な作業によって、ただ圧倒的にそびえたっているこの巨大な建物には、ひたすら圧倒される。この国に生まれ育って、カトリックにならないのは至難の技だ。多分。


1997/9/14 DAY6:最後の晩餐とダ・ビンチ、そしてスリに会う

イタリア3日目の今日は、私はもう一度ミラノで見残した所を回るが、べろちゃんは電車を乗り継いでニースまで行くと言うので、別行動とした。本当に一人で行ってこれるのかどうか知らんけど、まあ、自分で行くと言うので、結構な事だ(笑)。

朝はちょっとばかりゆっくりと起きて、ミラノに来たなら定番の、ダ・ビンチの書いた「最後の晩餐」を見に行く。数年前のTV番組で修復作業の様子をやっていたが、痛みがひどいらしい。ドゥオモ駅から2駅ばかり乗り継いで、くだんの教会に行く。ところが、まだ朝と言うのに長蛇の列。フェイレンッエの美術館と同じだなあ。日本人はあんまり並んでないが、問題は列が全然進まない事なんだな。

あたりを眺めていると、駅と思しい方角から、日本人がどんどん来るのだが、どうも彼らは、横の教会のほうにそのまま入って行き、出てこない。しばらくして、後から来た見覚えのある日本人が、出口から出てきたのでだいたい諒解した。つまり日本人の団体は予約をしているか、あるいは特別なツテがあるかで、優先的に先に入っているようだ。その入場が朝に集中している為、黙って列に並んでいる我々が割りを食って、全然順番が回ってこない訳ね。けしからんなあ。

しかし、小一時間ばかり待つと、さすがに団体客も来なくなり、今までがウソのように列が進み出す。窓口で入場料を払うが、大きな札を出してつり銭を貰おうとすると、因業そうなおばはんが紙幣を受け取らず、なにやら無愛想な顔をして、イタリア語でごちゃごちゃ言う。何を言ってるかわからないので、しかたなしに財布をもう一度探して、小額紙幣を出すと、急にニコニコしてつり銭をくれる。ハッタリをカマシやがったな(笑)。

廊下を進むと、ガラスの自動ドアで仕切られたエアロックみたいな部屋がある。10人ばかり入ると、後ろのガラス扉が自動的に締まり、今度は前のガラス扉が自動的に開く。そこを通り過ぎると、また同様の二重扉。そして、もうひとつ。要するに湿度や温度が調整されていない外気の流入を極力避ける為らしい。

ようやく薄暗い堂内に入ると、壁画の前にやぐらが組んであり、2人の女性が何やら修復作業にかかっている。もちろん室内はフラッシュ撮影禁止の掲示が出ていたが、どこにでもいるんですなあ。フラッシュ焚いて取る奴が。最近のオートカメラは大抵、全自動ですから、暗いところでシャッターを押すと勝手に光ります。アメリカ人とおぼしいおばちゃんがフラッシュを焚いて、修復をしている女性に叱られている。日本人じゃなくてよかったあ(笑)。私のデジカメはフラッシュ無しなので、撮影はしてみたものの、この程度。暗くて写らない。

しかし、もしもあれが、現在の本当の壁面だとしたら、剥落と色落ちが激しく、以前の写真で見るような面影は、まったく残っていない。修復作業の為、一時的に表面に保護剤か何かを塗布しているせいであればいいのだが。修復と言っても、あそこまで薄れてしまったら、ほとんど、もう一度書き直すのと変りない。もともと屋内にあった壁画なのに、ここまで崩壊が進んだのは、ダ・ビンチが経年変化が実証されていない、実験的な顔料を使用したのも一因だそうだが、消え行く脆いものは、消え去るにまかせるしかないのだろうか。おみやげで売っている絵ハガキのほうが何倍も実物より奇麗だ。

なんだか複雑な心境で建物を出て、今度は近くのダ・ビンチ記念科学博物館をのぞく事にする。石畳の道を数分歩いて到着。受け付けのガードマンが、愛想よく「ジャポネ? ジャポネ?」と聞いて、日本語のパンフレットをくれる。日本人が多いんだなあ。世界どこ行っても。

ダ・ビンチの名前はついているものの、別にダ・ビンチのオリジナルの草稿や遺品が残っている訳ではなく、すべて複製品。しかし、科学技術と産業化の流れを、分野別に展示によって辿ってゆくと、古くはローマ時代にまでさかのぼり、中世、ルネッサンス、近代と世界有数の哲学者・科学者を輩出した偉大なるイタリアの歴史も辿れるという趣向。しかし、現代に近づくにつれて、産業の分野では、どんどん元気が無くなってくる様子が、図らずも伺えて興味深い。そうそう、コンピュータの原型と言われる、バベッジの 階差機関(ディファレンス・エンジン)の模型があった。昔は凄い国だったのにねえ。

博物館を出て、近くのカフェで軽い食事。単にソテーしただけのハムが妙にうまい。パスタもなかなか結構。今度はとりあえずドゥオモまでブラブラ歩いて戻る事にする。どこへいっても古い町並みが残っているが、フィレンツェ同様に放射状に広がった道が、複雑に入り組んでいて分かりづらい。


その少女に会ったのは、もうすぐドゥウモ広場に着こうかというところのあまり人気のない道。後ろからなにやら呼びかける声がするので、振り返ると、13、4の少女が新聞を持って近づいてくる。きれいな顔立ちをしてるのだけど、服装はボロボロで顔も汚れている。どうも新聞を買ってくれと言っているようなんだけど、妙に体を近くまで近づいてくる。手に持った新聞を私の体に触れるまで突きつけて、依然として私の顔を見ながらなにかを懇願するように話しかける。

私に突きつけられた新聞が、私の肩から提げているバッグをちょうど隠すような形になっている事に疑問を感じるのには、ほんの一瞬しか必要ではなかった。新聞を持った手を払いのけると、確証はないが、もう片方の手がバッグのポケットからサッと離れるのが、確かに見えた気がした。手を払いのけるやいなや、少女は両手を、何もしてないとばかり広げて頭上に上げ、首を振って悲しい顔で何かを訴えながら後ずさる。そして少女は、そばにいた6才ばかりの弟の手を引いて向こうに駆け出して行ったのだった。

早めに気づいたからか、バッグには何の被害も無かった。もともと外のポケットには貴重品なんて入れてないし。しかし、あれは本当にスリの企てだったのか、もしも本当に新聞をいくばくかの小銭で買えと言っていたのなら、なんだかずいぶん貧しい身形だったし、ちょっとぐらいお金を上げてもよかったかな、などという考えが、実に甘い物である事に気づくには、ほんの数分しかかからなかった。

ちょうどドゥオモ広場についてスカラ座に続くアーケードを通り過ぎた路上で、また、なにやら手に新聞を持って近づいてくるのがいる。今度は子どもづれの、40くらいの女性だ。さっきで慣れているので、ちょうどこっちの目線をさえぎるように胸元に新聞を突きつけてきた時、すかさず新聞を払いのけた。その下の手を掴もうという算段。しかし敵もさるもの。私のズボンの左ポケットに半分手が入ると同時に、こちらの反応に気づいて女は電光石火で手を引き抜いた。やはりプロの速さですね(笑) 手はかすったが、捕まえる事はできなかった。

その後の反応もまったく同じ。手のひらを広げて、首を振って、「私は何もしてませ〜ん」と大袈裟な身振り。そうすると、さっきの少女にこの手法を教え込んだのはこの女だろうか。あるいはひょっとして母親か。イタリア語でなんというか分からないので、「Get outta here!」と声を荒げると、そばにいた観光客相手にキャンバスを広げている絵描きのオッサンが、なにやら女に大声で怒鳴って追い払ってくれた。

そのオッサンが私にしきりに訴えるには、「No Italiano! German! German!」。あいつらはイタリア人じゃなくてドイツから来たんだ、にはちょっと笑ってしまった。なかなか愛国者ですな。いわゆるジプシーと言うのかも知れない。しかし、立て続けに2回も狙われるとはさすがにショックだ。ズボンのポケットにも何もいれてないから被害なんてないが、そんなにぼんやりして見えるのか(笑)。

いったんホテルに戻って、ちょっと買い物に出る。自分の為には、別に欲しい物なんてないんだけど、ドイツでお世話になったS氏と奥さんにおみやげを探す。私は神に対する信仰もないが、ブランドに対する信仰も持たないので(笑)、何がなにやらさっぱり分からないが、ドゥオモ広場の北東には、誰しもがどこかで聞いたような有名な名前の店が並んでいる。これがまた高いんだ。それでも日本に比べれば安いらしく、日本人が沢山歩いている。日本で売るためにバッグなどを山ほど買い込んで帰る、いわゆる「国際かつぎ屋」も沢山いるらしい。ご苦労ですなあ。金にあかしてブランドを漁る日本人を見てれば、スリたくなってもしょうがないよな。ちょっとだけスラしてやるのも博愛の精神からは大切かもね。

なんだか、大勢の日本人が入ってる店があったので、中に入ると、日本人の店員がいて、色々と買い物の相談に乗っている。よほど日本人の客が多いんだなあ。しかし、この店員に物を訪ねてる客のオッサンの口調の偉そうな事。金を払う客なんだから、何してもいいといわんばかりの態度はどこででも大嫌いだ。初めての外国で興奮してるのかねえ。このド田舎者め!と言いたかったが、まあ、止め。そそくさとおみやげだけ買って店を出る。

ホテルに荷物を置きに帰って一休み。なんだかんだ歩き回ったので、疲れた。ちょっくらホテルのバーでジン・トニックを引っかけて夕食に出る。一昨日の店のパスタの茹で具合をもう一度確かめたくて、再びトライ。まずキャンティを一杯。前菜はまたプロシュートとメロン。パスタは何かお勧めがあるかと聞くと、マシュルームのフェッチーニはどうかと言うので、小さな皿を頼んだ。やっぱりこの茹で具合は非常に固い。しかし腰があってそれがうまいんだな。第2の皿は、この間べろちゃんが頼んだ、コートレット・ア・ラ・ミラネーズを試してみる。これがまたカラっとあがっていて結構ですなあ。しかし本当のところを言うと、ウスターソースをさっとかけて、ご飯で試してみたい気もする。ははは。

はっきり言ってもう満腹なのだが、ウエイターがせっかくデザートを持ってくるので、小さなキャロットケーキを貰う。普段甘いものなんてまず食べないけど、わりと控えめな甘さで大丈夫。ダブル・エスプレッソを飲みながらイタリア式フルコース終わり。もうしばらく何も入らない。

ホテルへ帰ってベッドにひっくり返ると、電話が鳴る。なんとべろちゃんで、ニースへ行くと行ってたのに、急に気が変わってミラノでウロウロと買い物をしてたらしい。やっぱり一人でフランスまで行くのは不安だったのかな。ちょっと部屋に行って一緒に飲む。なんと彼も今日、スリに会ったらしい、左からばあさんが近づいてきて腕にすがり付く。それを振り払おうとしているすきに右後ろから、もう一人がズボンの右ポケットの中身をすっと持っていったらしい。あわててふりむくと、左手のばあさんはすたこらさっさ。でも取られたのはハンカチ1枚だそうです。まあ、めでたしめでたし。2人合わせて3回スリに会って、被害はハンカチ1枚か。まあよかった。本日もなんとか終わり。はあ〜。


1997/09/15 DAY7 ミラノ〜ベルン〜マンハイム

しかし、今ごろになって9月の事を書くのも変なもんだなあ。(今日は11月15日だからちょうど2ヶ月)もっともアメリカから日本への引越し等、色々あったのでしょうがないのだけど。<一番の原因はお前がサボってるからや〜! 一応メモを取ってたのと、デジカメ画像90枚のおかげでなんとか記憶を取り戻すことはできるのだが。ま、もう少しだから頑張って終了させるか。

この日はミラノからハイデルベルグへの移動日。早い電車なので、朝早くホテルを出る。まだ夜明け前、満月がドゥオモ広場の上にかかっている。日本だと、有明(ありあけ)の月ですが、イタリア語ではなんと言うか。答え:イタリア人は夜遅くて朝も遅いからそんなの見た事がないので名前なし。わははh。

ミラノ駅はしかし、結構人がいる。来た時は、チューリヒ経由だったが、同じところを通るのもなんなので、今回はベルン経由で北上する予定。列車に乗り込むと、まだガラガラ。6人がけのコンパートメントを2人で占領して出発を待つ。ほぼ時間どおり出発。また違う角度からのアルプス越えがあるのだが、ここのところ早起きが続いていてどうにも眠くてしょうがないので、3人掛の座席に横になってちょっと一眠り。

次に気が付くと、列車はそろそろアルプスに近づいている。べろちゃんによると(彼だって寝てたのだが)車掌は一応検札に来たのだが、彼の切符も見ただけで行ってしまったらしい。全然気づかなかった。ベルン経由のほうの列車は途中、アルプス観光への入り口、インターラーケンを経由するので、時間があればそっちに行ってもいいのだが、今回は時間なし。列車は来た時よりかなり標高の高い場所を走って、やはり左右にアルプスの山々が姿を現してくる。実に美しいのだが、これを写真に映すのはほとんど不可能なんだなあ。しかも逆光だし。人間の目がいかに精巧にできているか、という事。しかし、一応一枚だけ

アルプスを越えてしばらくすると、列車はベルンに止まり、ここで1時間半ほど次の列車待ち。ちょっと市街でも歩いてみるか、とブラブラと駅から出る。こういう時には改札がないヨーロッパの駅って便利だよなあ。石畳の駅前広場を通り過ぎて市庁舎のほうに。おお、こんなところにも中華料理の店が! いやいや、入りやしないけどさ。

途中の通りでは野菜や果物を売る市が立っている。特に、ブルーベリーだろうか、アメリカでも見た事がないほど瑞々しい。野菜もあんまり見たことないのが多いなあ。露天商が並んでいる通りを歩いてゆくと、また石畳の広場に出る。周りにはカフェのテーブルが一杯で人はお茶を飲み、集い、若者の群れは石畳のあちこちに座り込んで、ギターにあわせて歌ったり、おしゃべりに興じたりしている。歴史のある広場が昔のままの姿で若者や老人を引き付けている。ヨーロッパはどこに行ってもそんな広場に出くわす。古い町並みをどんどん壊して、無機質なコンクリートの街に造り替え、おざなりに木を植えた緑地と散歩道をつくって、「ふれあい広場」なんて名づけても、誰ももう寄って来ないんだ、そこには。日本の役人達よ。あるいはシティ・プランナーと称する人達よ。

だいぶ歩いたけど、列車の時間も気になるので、駅へ。そこで、べろちゃんと合流。そう、彼は駅で休んでいたのです。今日の午後にマンハイムで落ち合うS氏宅に電話して時間を決めなければならないのだが、電話を見ると、どうもカードを使うようだ。第一、コイン式だと、スイスフランのコインなんて持ってない。どうやら説明を読むと、このカードはTAX CARDと呼ぶようだ。と、ここまで判明して、ふと電話が並んだ横の銀行の事務所みたいなのを覗くと、TAX CARDとでかでかと書いてあるじゃないの。そこで10フラン分を購入。

このカードは大きさも厚みも丁度日本のクレジットカードとほぼ同じ。こういうのを使い捨てにするのかなあ。あるいは書き換えができるのか。肝心のカードに説明が書いてないので、よくわからない。表の絵柄はなんかETのできそこないのようなエイリアンが書いてある。似てるが、よく見ると全然ETとは違う。いったいなんじゃいこれは(笑)。

S氏の事務所に電話したが、誰も出ない。昼過ぎだし、出勤日なのに変だなあ。(後で聞くと、結構みんな遅く昼食に出て、なかなか帰って来ないらしい。<ちゃんと働かんかい!)自宅に電話して奥さんに到着時間を伝える。マンハイムの駅で5時に待ち合わせ。

列車がベルンを出てしばらくすると、ドイツ領に入り、あとは来た道と同じ。またウトウトしながら電車は、ただ北へと走ってゆくのだった。5時少し前にマンハイムの駅につくが、まだS氏と奥さんの姿が無い。10分ばかり駅でブラブラしてると、ほどなく子ども連れで到着。S氏の車でマンハイムのドイツレストランへ。

ここは日本からの出張者が来るとかならず連れてくる典型的なドイツ料理店なんだそうだ。前菜にドイツの生ハムを全員でシェアした後、私はレバー団子のスープに、店名物と言うソーセージの盛り合わせ。べろちゃんはステーキ。これは焼き上がりに生のニンニクの微塵切りが一面にまぶしてあって、ちょっと強烈でしたね。S氏の奥さんはウィナーシュニッツェル。ミラノ式カツレツなんかと似たようないわゆる薄切り子牛肉のカツレツですね。子ども達には、ハンバーグステーキみたいなの。あれもうまそうだったな。

ドイツのソーセージは日本のものでもアメリカのものでもない独特の風味があって大変おいしい。ただ、スープもそうだけど、全体にちょっと塩からいような気がする。ドイツでは肉料理でもほとんど白ワインだと言うので、ずっと白で。もともとぶどう生産の北限で、赤ワイン用のぶどうはほとんど出来ないらしい。しかしこの白が素晴らしい。爽やかな酸味とフルーテイーな香りのいいワインだ。このレストランはもともと近くのワイナリーの直営なんだそうだ。なるほどねえ。色々とスイス、イタリア旅行のみやげ話がはずむ。S氏もイタリア旅行した時、スリにあいそうになったらしい。そうだろなあ。

奥さんのほうは、しきりにイタリアに遊びに行きたがっている。ドイツに住んでいればイタリアに行くのは簡単だが、やはり子ども連れではちょっと困るかな、なにしろレストランが7時や7時半でないと開かないからなあ。

さんざん飲んで食べた後、S氏宅に戻って子ども達を寝かしつけて、今度はウイスキーでまた酒盛り。ドイツの夜はスコッチの香りとともに更けてゆくのだった。


1997/09/21 なんとかアメリカに帰還!

ドイツを旅行するはずが、急にスイスとイタリアに出かけたり、ミラノのホテルの予約を取るのに悪戦苦闘したり、電車に乗り遅れたり、イタリアではお約束のスリに会ったりと(被害はなかったけど)実に色々あった。



デュッセルドルフ中央駅に一人で着いたのが、昨日の夜11時。マンハイムを8時頃に出発したからしょうがないのだが、どうも駅の周りが暗くてあまりいい雰囲気じゃないんですな、ここは。マンハイムの駅で別れる前にドイツ駐在の同期に、デュッセルは安全だろうかと確認すると、「いやいや、駅構内での麻薬取り引きはデュッセルドルフがドイツで一番多いんだって。スリも多いよ」などと、教えてくれなくてもいい余計な事を吹き込むので、歩いていても、どうも気持ちが悪い。また、頭をそり上げたネオナチみたいな汚い格好の恐そうなのが多いんだ。

今朝電話で予約したホテルは駅から歩いて数分だし、タクシー乗り場も駅の反対側なので、荷物を引っ張って歩いてゆく。ここは日系企業の多い街なので、ホテルの近くにはまだ、日本人が結構うろついている。元気だねえ。チェックインして、部屋に入ってマンハイムの同期宅に一応到着を電話で告げてそのまま就寝。

朝も荷物を転がして、中央駅からデュッセルドルフの空港へ。飛行場は英語表記もかなりされているが、ドイツ国鉄の駅はまずほとんどがドイツ語表記で、駅名表示板の飛行機の印で出発番線を知るしかないのだが、これがどうにも不安なんですなあ。しかし到着した時の記憶を頼りにS7と書いてあるホームへ。

列車に乗り込むと、スーツケースを持ってる客が結構乗っている。おお、間違いない(笑)。ドイツの空港はなんだか出発の時のセキュリティチェックが厳しくて、カウンタで荷物を預ける前に一人一人に係員が、荷物はいつ、誰が荷造りしたか、とか何が入っているかとか、旅行の目的は何だったかなど、10問以上質問する。国際線だから、英語が通じたが、ドイツ語でやられたらえらい事になっていた。日本への便なら、特別に日本語を話す係員がいるのかも知れないが、シカゴ行きなんて、見たところアジア系は私だけ。

身体検査でも、金属探知器だけでなく、実際に係員が背中や足首、手首を触ってチェックするのはなかなか厳密。そのわりには、パスポートコントロールはパスポートの番号を端末に入力しているだけ。入国時にも、何の質問も無く、番号を端末に入力するだけで、電車で移動すれば、イタリアやスイスへの入国時にもパスポートは不要だから、日本で犯罪を犯して逃げる時には、ドイツに飛行機で来て、電車でスイスなんかへ逃げればまず足がつかないでしょう(笑)。

ユナイテッド航空に乗り込むと、アナウンスは英語に変わり、なんだかホッとする。この休暇中はずっとヨーロッパの鉄道で移動してたが、英語のアナウンスなんて車中で聞いたのは、ミラノからフィレンツェに行く特急電車の1回だけ。それも帰りの電車はすべてイタリア語だったから、たまたまその電車の車掌がちょっとだけ英語が話せたからだけみたいだ。アメリカ人はよほど教養のある人間以外は米語しか話さないから、ヨーロッパ旅行は不安だろうなあ。まあ、こっちだってなんとか話せる外国語は英語だけだからアメリカ人を笑えないけどね。

離陸後しばらくして客室乗務員が配布したアメリカ税関申告カードが、なんの間違いかすべてドイツ語バージョンだった。当然チンプンカンプン。弱ったなと思ったが、ユナイテッドの機内誌の後ろにカード記入要領が各国語で掲載してあるのを思い出して、英語・日本語と比較しながら(笑)、はるか昔の第2外国語の知識も総動員して(そうそう、一応大学の時、ちょっとは習ったはずなんだけど、まるで夢のよう)、ロゼッタストーンのヒエログリフを読むかのごとく(笑)解読していると、あちこちのアメリカ人から、これじゃ全然解らんと非難の声が上がる。さもありなん(笑)。どうやらこのフライトにはドイツ語が堪能な乗務員が少ないようで、私も解りませんと右往左往している。

となりのおっさんは、シカゴからデュッセルの工場に出張していたアメリカ人だが、やっぱりこれじゃ全然解らんと文句を言ってる。結局、機内放送で1問1問英語に翻訳してゆく事になった。ドイツ人はざまあみろと涼しい顔。しかし、どうも納得いかないのは、機内誌の例と対象すると、質問の番号や順番が日本語バージョンもドイツ語バージョンもあちこち英語のオリジナルと違う事。これではシャンポリオンと言えども解読はできないよなあ。なんでそろえないんだろう。どうも理由が理解できない。まあ、もともとこの書類はパスコンの後に立ってる係員に渡すだけだから、さほど大した事はないんだけど。

ちょっとゴタゴタあったものの、定刻通りシカゴ・オヘア空港に到着。所詮アメリカだって私にとっては異国だけれど、やっぱりなんだか帰ってきたなあ、と言うほっとした気分です。エコノミー・パーキングに止めていた車に荷物を放りこんで帰路に着く。道路は空いていて15分で到着。自分の部屋のベッドに倒れ込む。いや〜。はるばる帰ってきたなあ。でも、来月初めにはまた日本に帰国だけど(笑)。で、本日はここまでです。




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