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2005/06/05 「ミリオンダラー・ベイビー」 

昼から銀座に出て、「ミリオンダラー・ベイビー」を見た。日時のせいか作品のせいか、飲み屋のオネエチャン風を連れたオッサンがほとんどいなくて、心なしか客筋がよいような。飲み屋のオネエチャン読んだら怒るかな。ま、オネエチャンが悪いというより、映画に連れてくるオッサンのほうが品も教養もないことに起因するのだが。はは。

今週の週刊文春、映画評のページで評者全員が、この映画に満点の「☆5つ」をつけていたのにびっくりした。どんな映画でも、だいたい1人くらいは合わない人がいるもんであるが。ま、「おすぎ」の好評価というのは、あの酒焼けした汚い声でガナリたてる映画のCM思い出してゲンナリするので、悪い点付けた映画のほうをむしろ見たいなという気がする訳ではあるが。

しかし、この映画は、実に端正によくできている。イーストウッドは、俳優よりも監督として素晴らしい。モーガン・フリーマンは実に上手い。日本で言うと、そう、大滝秀治か。そして、ヒラリー・スワンクも本当に素晴らしい。しかし、この映画のよさについては、もう少し、あれこれ考えてから再度ここに書きたい。多分、2回目に見た時のほうが泣ける。そんな、淡く見えて深い映画のような気がする。ラーメンスープではなく、よくできたコンソメのような。

参考までに、Yahoo! Japanの掲示板などみたのだが、この映画のエモーショナルなバックボーンになっている、「アイリッシュ気質」についてまったく触れていない感想が多いのにかえってびっくり。「モ・クシュラ」。最後に2人の魂が深く通じ合った、あのゲール語。



2005/06/11 「ミリオンダラー・ベイビー」

映画のほうは先週見たのだが、原作の「ミリオンダラー・ベイビー」(F・X・トゥール/早川書房)のほうも読了。著者の本名は、ジェリー・ボイド。海軍、闘牛士、バーテンなど職業を転々とし、40代後半でボクサーを志す。その後、トレーナー、カットマンに転じ、70歳でボクシング小説を書いて作家となったという波乱万丈の経歴。

映画のほうはこの短編集の中から2つのエピソードを取り出して脚本化。アメリカ社会の底辺で見るボクシングという輝かしい夢。成功と挫折、栄光と失意、血と汗が交錯するボクシングの世界をリアルに描き出している。映画化された以外の、「ロープ・バーン」や「ブラック・ジュー」などの短編も実に印象的。著者は映画化を見ることなく、2002年に70歳で死去したのだという。



Spoiler warning: Plot or ending details follow (ここから先は映画と小説の結末に触れることになるので、気になる人は読まないほうがよろし)



ミステリーやスリラーではないので、ネタバレが致命的とは思わないが、映画の後半に何が起こるかを知っているとやはり興を削ぐ。例えば、この映画の予告編は、ちょっと場面を紹介し過ぎという気がする。実際に映画を見た時のエモーションの振幅にかなり影響していると思われるのだが。

映画は原作にほぼ忠実。ただ、ラスト付近にはやや演出に差がある。タイトル戦での事故で全身麻痺となった後、殺してくれと頼んだマギーの願いをトレーナーのダンは断る。マギーの父親が病気の犬を殺すエピソード。そして、マギーが舌を噛み切って図る自殺。このへんまでは映画は原作に忠実。しかし原作では、マギーは舌を噛み切ってしゃべれなくなる。一命を取り留めるが声を失い、眼のまばたきの回数でイエス・ノーを示すことしかできない。

「俺のせいだ」と嘆くダンに、マギーはまばたきのサインで「ノー」と伝える。「神様、何か俺にできることはないのですか」と絶望の声を上げるダンの眼を覗き込みながら、マギーは「イエス」を示す2回のまばたきをずっと繰り返す、「(そう、あなたにできることがあるのよ)YES、YES、YES…」と。そのまま映像化しても優れて映画的な場面として成立したと思うが、クリント・イーストウッドは別の演出を考えた。

マギーの苗字、Fitzgeraldも、トレーナーのDunnも、アイルランド系の名前。イギリスの支配下で、搾取と圧政による貧困に苦しんだ国。宗教はカトリックで子沢山。アメリカに移住した中でもアイルランド系には貧困層が多いと言われるが、映画でマギーの家族が典型的なホワイト・トラッシュと描かれたまさにその通りである。

孤高で誇り高く敗北を認めない。頑固で人の言うことを聞かない。それがアイルランド気質。アイルランドの古語であるゲール語を辞書で勉強するトレーナーのダンが、「あいつは一度も俺の言うことを聞いたことがない」とマギーを語るとき、彼は彼女に、自らと同様の典型的なアイリッシュの血と自分の娘を見ているのである。

厳しいトレーニングに耐えてほとんど手中にしかけた栄光、しかし襲った恐ろしい悲劇。自ら成し遂げたことに誇りを持つからこそ、マギーがダンに乞うたこと。タイトル戦に勝ったら意味を教えてやると言ったゲール語、"モ・クシュラ(Mo Cuishle:Mo Chuisleと綴るのが正しいという説もあるようだが)"とは、「My darling」あるいは「My blood」。ダンは、自らがマギーの命を絶つ寸前、「同じアイリッシュの血を引く愛する娘よ」と呼びかけたのであった。それは愛の告白でもあり、自分を拒絶する実の娘に対する愛慕の念でもある。原作でもこの言葉はでてくるが、これほど大きな意味を持ってはいない。ゲール語やイェーツの引用、アイルランドの血を強調することによって監督イーストウッドが掴み取り、新たな光を与えて我々に提示した実に印象深い演出。

最後にダンがどうなったかについて、いくつか伏線を張りながらも注意深く決定的な印象を避けているのも原作とやや違う点。そしてそれが映画の余韻を更に深めているように感じる。

ボクシング・シーンは印象的。少なくとも「ロッキー」よりは何倍も迫真度あり。ヒラリー・スワンクはよほどトレーニングを積んだのではないだろうか。役者の域を超えてボクサーに見える。饐えた匂いがするような場末の薄暗いジム、そこに集うボクサーやうさんくさいプロモーター。原作が描いた雰囲気もよく出ている。陰影を上手く使った映像や、控えめな音楽が心に染みる。派手なローラーコースターのようにではなく、脇腹を深くえぐるフックのようにエモーションを刺激する映画。