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1998/03/02 長く生きる事の悲劇
会社帰りに本屋をのぞいてると、「60歳すぎの親を持つ長男・長女の読む本」(だったか?)が目に止まる。要するに、これからの高齢化時代にそなえて、自分の親の介護や老後のケアをどうするかの勉強をしとかなあかん、と言う趣旨の本らしい。なるほどねえ。うちの会社でも、先日定年になった男性は、自分の寝たきりの母親の介護の為に郷里に帰ったそうだ。本人だってもう定年だから、こういうのを老人が老人を介護する、いわゆる「老老介護」と言うらしい。

そう言えば、アメリカ人は、基本的に自分の親の老後を家で面倒をみたりはしないようだ。今、アメリカで、施設に入っている老人達も、自分達の親の面倒なんて見てなかったのだから、人生はそう言うものと、すっかり諦観して、あたりまえのように自分達の境遇を受け入れているのだろうか。


大学の時に読んだ社会学の本に、大正から昭和初め頃の日本人の平均的な生活史を表したチャートが載っていた。その表を私なりに読み解った記憶としてあるのだが、当時はまだ人生50年が文字通りあてはまった頃で、父親はだいたい長子に子どもが生まれ、4〜5人いる子どもの末っ子が大学を卒業するかしないかの年齢の時に死去するのが平均的な寿命だったらしい。

当時、この図を見てまっさきに思い出したのが漱石の小説。「坊ちゃん」の主人公は末っ子で、親はすでに死去して、家には、ばあやがいるだけ。「こころ」の主人公も、大学在学中に父親の死に見舞われる。当時の人間の平均寿命としては、これは決してとりたてて悲劇的な状況と言う訳でも無く、ごく普通の世相だったんだろう。


ひるがえって最近の会社なんかでは、時には、本部長や常務取締役なんてお年の人のご両親の訃音が掲示される事がある。いやはや、そんな年になっても、まだ親が健在な人がいるんだ。享年を見ると、88歳とか90歳とかの大往生。そりゃあ息子だって年とるよなあ。

大正や昭和初期の親は、孫の顔を見る事は、今ほどたやすい事ではなかったろうし、自分の子どもが世に出て、順調に暮らして行けるのかどうか、実に心を痛めながら、この世を去って行ったに違いない。しかし、ここ数十年の平均寿命の伸びは、こういう親子関係をもいやおうなしに変化させている。

今では、孫の顔はおろか、息子が功なり名遂げてひょっとすると引退するまで十分生きてられるし、孫の結婚だって立ち会う事は夢物語でもない。ある意味では、昔の親よりも幸せなのかもしれない。

もっとも、自分の息子が、中年を過ぎてから、会社で無能の烙印を押され、リストラで職を失い、妻子ともども路頭に迷う場面や、孫息子が学校でバタフライナイフで教師を刺し殺す場面をも、老いさらばえた自分の人生の中で直視しなければならないとしたら、それはそれで、ある一面、科学や医学の進歩は、実に残酷な悲劇を人間に与えたと言うべきなのかも知れないのだが。