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2006/06/23 「お言葉ですが…」 予言、預言、豫言

会社帰りに日本スーパー隣接の日本書店で文春と新潮。日本で木曜発売の雑誌が、時差込みとはいえ、アメリカの金曜に買えるのだから世界も狭い。ポストやら現代は前の駐在の時から置いていなかった。なんでも、ヌードグラビアがあるこの手の週刊誌を、アメリカのガキに売ったということで店長が逮捕されたからだと聞いた。その頃からJALやANAの国際線でもこの手の週刊誌はプッツリ置かなくなった気がする。ま、別に無くとも困らないが。

文春、高島俊男の「お言葉ですが…」という連載は、漢学の深い素養から、日本の世相、文明論に至るまで痛快に切る間口が広く、毎週愛読している。この3週続けて「預言」、「予言」、「豫言」の区別について、日本に流布した用法が間違いだとの力説が、なかなか興味深い。

高島氏は、「預言とは神様から言葉を預かること、予言とは違う」というのは根拠ない「俗説」で、なぜそれが日本に流布しているのか信じがたいと説く。広辞苑ですら用例にそう書いてあるのだが、その使い分けは完全に間違いだと、漢字の歴史を紐解いて悲憤慷慨する。要するに、「豫」「預」「予」は字体が違うだけで、中国での本来の漢字の意味としては、まったく同じで区別がない。だから「予言」も「預言」も同じで、違いがあるはずないということらしい。

いや〜、しかし、これを読んで私もビックリした。昔から、「預言」とは神の言葉を預かった者の言葉であり、「予言」というのは単なる辻占のたぐいであって、まったく違うのだと理解していたから。

高島氏は、「広辞苑」の編者やら、「明鏡国語辞典」著者にこの誤用の責任があるかのごとく、なんでこんな間違いをしたのかと口を極めて罵るのだが、しかし、これは本当に辞書が発端かな。なぜなら、私自身が、「預言」と「予言」の違いを上記のように認識したのは、別に「広辞苑」に書いてあったからではないから。一般的に、「広辞苑」や「明鏡なんとか」に書かれたから、人々が言葉をそう使うのではないだろう。辞書は、逆に人口に膾炙した用例・解釈を単に採集してあるに過ぎない。辞書ではなく、誰かの説が広まったのだ。

ネットで「予言者と預言者」を検索するとはっきり分かるが、この2つが違うというのは、ほとんど通説と読んでもよいほど日本に知られた有名な話となっている。私自身が最初にこの説を読んだのは、山本七平だったか、いや、あるいは浅見定雄が書いてたのか(もっとも浅見定雄は、山本七平の「ユダヤ人」系著作を完膚なきまでに批判しているのだが)。しかし、この2人でなくとも、宗教入門のような(どちらかというと通俗的な)本を手にとってユダヤ教の部分を読むなら、そこには必ずといってよいほど、「予言と預言」の違いについて述べてあるだろう。

漢字として両者に決して意味の違いがないことは、おそらく高島氏の書く通りなのだろう。では、なぜ、これほどまでに「予言」と「預言」の違いが広まってしまっているのか。日本に蔵書を全部置いてきてしまったので、手軽に調べることができないのが隔靴掻痒だなあ。ただ、漢字としてはその通りでも、「旧約」にある、「予言者は殺されなければならない」という部分と、いわゆる神に感応して神の言葉を語る「預(予)言者」とは意味が違うのは、これまた中国語とは関係なく納得が行く。そのへんから中国の漢字本来の意味とは違う使い分けが生じたのではないだろうか。しかし、著者は、今週号でもまだ激高した調子であるから、まだ来週もこのシリーズで、そのへんのことにも触れて続くのかもしれない。

余談だが、「予言」と「預言」の違いは、今使ってる私のPCのIMEでも、漢字選択の用例として画面に現れる。広辞苑がどうこうというのを超えて、もはや常識として定着している感があるのだが。