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2005/10/06 「信教の自由」はその通りだが。

10月2日の日記、「「司法のしゃべりすぎ」と靖国参拝「違憲」判断」で触れた大阪高裁の判決。今週号の週刊新潮を読むと、この判決を下した裁判官は、かなり変わった人物のよう。今までも話題になる判決をたくさん書いているらしい。

本日の日経朝刊では逆に、「高松高裁(水野武裁判長)は五日、「参拝により、法的保護に値する利益の侵害があったとは認められない」として、憲法判断を示さないまま原告の控訴を退けた」との記事。裁判の判決としては、このほうが正しいと思う。余計な「蛇足」を理由欄に書く必要はない。

「信教の自由」は、もちろん日本憲法に定めてある。しかし、同じく国民の権利について述べた憲法第十二条後段には、「又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とも書いてある。

自らの思想信条を正しいと証明するため、自分の主義主張に有利な「蛇足」の判断を導こうと、日本全国で同時多発的に訴訟を提起している市民団体。彼らは自らの行動が、「大好き」な「日本国憲法」に定めてある、「権利は濫用してはならない」に当たると、多分一度も脳裏によぎったことすらないのだろう。

憲法20条の1、「信教の自由」部分については、西欧の普通の国家ならどこでも常識。しかし3項、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」というのは、世界のどこの国でも常識かというと、そんなことはない。政教一致しているイスラムはもちろん逆が常識。イギリスだって、国教会がある。アメリカでも、キリスト教を国教と定めようという動きが過去あった(もっとも移民国家は一枚岩ではなく、やはり挫折してはいるのだが)。あの第3項は、ナショナリズムと戦意高揚のために戦前作られた、いわゆる「国家神道」が日本に復活することの決してないよう、そんな意図でGHQがわざわざ置いた規定。実際のところ珍しい。

ま、もっとも、だといって、戦前の「国家神道」に価値がある訳ではない。だが敗戦後も「靖国」は、国家鎮護の座から外れながら、新憲法の「信教の自由」の影を盾に温存され生き延びた。この微妙な矛盾に、対外外交も含めどんな解決をつけてゆくか。外国からの政治的干渉については、「ほっとけよ」と思うが、日本国内でもどこかで真剣に議論しなければならない実に難しい話だ。