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2002/10/07 「江戸前寿司ファンダメンタリスト(原理主義者)」に意見する。

日曜の夜は、浅草の「弁天山美家古寿司」。お昼に予約の電話したら、カウンタが空いていた。近所に住んでた時は、よく店の前を通ったものだが、店の中に入るのは今回が初めて。

「神田鶴八寿司ばなし」を書いた、神保町「鶴八」の師岡親方は、寿司屋修行の始まりに、本来この「弁天山美家古」に入るはずだった。しかし、店が改装中だったため弟子筋の「柳橋美家古」に回され、そこでずっと修行することに。やがて独立して「鶴八」という店を持ち、そこから育った弟子が「新橋鶴八」、そのまた弟子が「しみづ」。そういう面では、私がいつも行ってる店の、はるか親方筋にあたる江戸前の老舗だ。

大通りに面しているせいか、ガラスのドアを開けた先に、更に和風の引き戸があるという造り。入ってすぐのカウンタは8席程度だが、その奥には、テーブル席がいくつか並ぶ。つけ場に立つのは、TVや雑誌で何度か顔を見た親方と、若い職人。先客は初老の夫婦連れのみ。

寿司特集の雑誌などに載ったこの親方のコメントを読むと、「峠の茶屋のお団子を思い出してください。それが江戸前寿司の食べ方です」とか、「アルコールも置いてはございますが、寿司に一番合うのはお茶だと思います」などとあり、どうもお酒飲む客は嫌いなようだ。

「すきやばし次郎」も、酒を飲む(常連以外の)客は、毛嫌いする印象である。昔の寿司屋は、酒出すような商売ではなかったというのが、寿司屋の酒嫌いの根底にある理屈のようだ。

江戸前寿司店に来る客のほうにも、「江戸前寿司ファンダメンタリスト(原理主義者)」がいる。「寿司屋で酒飲むのは邪道」、「寿司はお茶に限る」と、カウンタに座って、すぐに「お茶、握り」とくる客である。

しかし、結構勘定の高い高級店に夜行って、お茶で酒も飲まずに、「握り、握り」と連呼するのは、私からすると、正統派というより逆にどうもガツガツして、かつ安く上げようというシミったれた客に感じるのだが。

とまあ、こんなことを言うと、「江戸前寿司ファンダメンタリスト」からは、「お茶で寿司こそが本格だ」と目を三角にして叱られるに違いない。そういうところが原理主義者なのであるが。

昔の江戸前の寿司屋は、屋台で営業しておりみんな立ち食い。すでに何個か握って置いてあったりする。箸すら準備してない屋台も結構あり、もちろん酒なんぞ無し。値段も安く、客は、風呂上りに、ヒョイと顔を出し、「おっ、もらうよ」と2〜3個つまんですぐに帰るという商売形態だったようだ。食事ではなく、ちょっとしたオヤツ代わりというか。(そういう面では現代の「お茶で寿司」派は、一人で10貫も20貫も食べる人が多いが、これも本来の形態からすると筋違いということになろうか) 昔は酒飲むのは蕎麦屋が舞台だったということで、ま、今でもそういう時代だったなら、ファンダメンタリストの言うことも分かる。

しかし、現在の高級店は、ちゃんとカウンタも座席もある立派な店。予約しないと入れなくて、いったん座ったら1万円、2万円とかかる飲食店。日本酒のツマミに好適な最高品質の魚を置いてある。「峠の茶屋の団子だからお茶で」、が正しい使い方だと言われても、なんとなく承服しがたい。

もちろん、寿司屋は飲み屋ではない。酔っ払って寿司食わずにダラダラ長居する客は最低だ。しかし、適度に切り上げて誰に迷惑もかけないなら、飲もうが飲むまいが、客の好きなように使ってよいだろう。時代とともに、寿司屋の使い方も変ってなぜいけないのだろうか。

とまあ、そういう考えから、私は、どんな寿司屋に行っても、最初はまず日本酒でツマミから入るのであった。ま、これは単なる酒飲みの自己弁護か。ははは。

そうそう、もうひとつ典型的な「江戸前寿司ファンダメンタリスト」の主張としては、「寿司は手で食うもんでゲス」というのもある。しかし、これにもおおいに異論があるなあ。

いや、本当に手で食べたほうが美味いと思ってる人にまで異論を挟む気は無い。どうぞ、お好きなように。しかし、「手でつまむのが正しい」と考えてそうしているのなら、それは大きな間違いと言わねばならない。なぜなら、…、あれ? え〜っと、いったい何の話してたっけ。そうか、そうそう、「弁天山美家古」の寿司の話をするところなのだった。しかし、話が脱線するうちに長くなってしまったので、店の感想はまた今度。ははは。