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1999/04/04 「少年A この子を生んで」 / 「イエスの墓」

このあたりも桜は満開で、昨日は夕方からブラブラと散歩をかねて、道沿いの桜を眺めながら駅前まで。寿司屋に入って、皮目だけを軽く焼いた初カツオの刺身なんてので一杯やると、これがなかなか結構で、いつしか酒が進み、のんびり部屋に戻った時には日記更新はどっちでもいいやという気になってしまった。はは。

で、昨夜はネットにも繋がずに、帰り道で買った、「少年A この子を生んで… 父と母悔恨の手記」(文藝春秋)を読了。週刊文春にも事前に一部連載されたこの本は、例の神戸連続児童殺傷事件で「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った犯人、「少年A」の両親が書いた手記。

今週号の週刊文春には、この本を読んだ識者のコメントが特集されている。ニュースキャスターの桜井よしこは、少年Aの逮捕後の父親が、郷里の友人に会いに出かけたり、母親が友人に被害者の土師さんご遺族の様子を電話で聞いたりしながらも、結局、一度も被害者宅に謝罪の電話も訪問もしてないことを引いて、この両親は、「自分たちを怒らない人には会うし連絡するけど、受け入れられないかもしれない場所には行かない、これは子供の心理と同じことで、殴られても謝りに行くのが筋。やる順番が違う」と痛烈な批判をしている。

まあ、半分は納得できるものの、自分達の息子が殺人者である事にまったく気づいていなかった両親の衝撃を考えると、そこまでの批判はちょっと気の毒な気がする。確かにこの手記を読んでも、この両親は人間として弱い。しかし、その弱さを責められる人がどれだけいるだろうか。

例えば、同じような境遇の、幼女連続誘拐殺人犯人、宮崎努の父親は、結局、自殺している。あれはマスコミによるヒステリックな集団リンチの犠牲者だ。もっとも、「両親は死んで償って当然」、という強行意見の人だって世の中にはいるだろうが。


手記を読む限りでは、「少年A」の両親は、確かに凡庸ではあるが、どこにでもいるような親であって、事件後に噂されたような、愛に欠けた厳格な家庭のようには見うけられない。この家庭より不幸な境遇に育った子供なんて、日本中にゴマンといるだろう。

「少年A」が、酒やタバコを所持していたり、万引きした事などについても、たいていの男の子が経験する通過儀礼のようなものであって、さほどの異常とも言えないし、その際の両親の対応にもさほど不思議なところはない。

しかし、これが、「何匹も猫を殺して、頭部を断ち割って解剖する時に、性的興奮を感じて射精した」という事になると、明らかに異常な心と言わねばならない。精神の正常と異常は、一本の線で白黒を判別できるような概念ではないとは言え、両親は、少年Aが単なる社会不適合な状態から、異常な精神状態へと踏み越えていった時期や原因についてはまったく思いあたらないようだ。

アメリカの犯罪心理の本などでは、「サイコパス(精神病質者)」という言葉が、こういった正常の仮面をかぶった殺人者を定義する際によく出てくるが、この少年を、サイコパスだと定義しても、実は、真実を知る何の助けにもならない。

なぜなら、このサイコパス仮説は、「人はなぜサイコパスになるのか」、「サイコバスは治療可能なのか」、「そもそもサイコパスとは病気なのか、個人の性向なのか」「普通の人間とサイコパスを判別する確定的要素は何か」というような質問にまったく答えておらず、これでは単に、「異常者だ」というのを「サイコパスだ」と言い換えたに過ぎない。

「少年A」を「サイコパス」だ、と断定するのはたやすいが、それでは、そういう犯罪者を生み出さないためにはどうしたらよいのか。「少年A」のもっとも身近にいた両親の手記を読んでさえ、何の手がかりもなしに、我々は行き惑うばかりだ。


さて、本日はのんびり寝坊した後、車でちょっと相模大野まで買い物に。午後から散髪に行ってさっぱり。途中で中断していた、「イエスの墓」読了。図版や地図がたくさん入った親切な本で、なかなか読みやすい。

レンヌ=ル=シャトーの秘密を知り、莫大な財産を得たと噂されるソニエール神父の残した(とされる)謎の羊皮紙の写し(原本のありかは判っていない)に書かれた文書の、あちこちの文字を繋ぐ膨大な補助線を引いて、角度を計り、ニコラ・プッサンの残した謎の絵「アルカディアの羊飼い達」などの構図に隠された色々な図形との一致を発見(?)して行くのだが、絵の中にどんな図形が隠されているかなんてのは、見つけようと思えばいくらでも勝手に線が引けるから、どうも眉唾だ。

フランス国土地理院発行の地図にその図形を投射して、ル=シャトー付近のあちこちの教会や城を結ぶ線を引き、図形の中心たる秘密の隠された場所を南仏カルドゥ山と断定しているのだが、財宝が隠されたとされる時代にそんな精密な地図があって、位置を測定できる技術があったのかどうか。

著者は、その財宝とはイエス・キリストの墓だ、と断定しているのだからなおさらだ。もっとも、結論は唐突で性急だし、飛躍が多いが、図形を見出してゆくプロセスそのものは、暗号の解読につきものの新鮮な発見もあって、なかなか面白い本ではある。