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2006/08/17 「靖国問題の原点」を読んで考えた

小泉首相は8月15日に靖国参拝。ついに公約を果たしたとか。しかし、国債発行枠に関する公約違反を問われ、「そんな公約大したことない」と逆ギレした男が、なぜ靖国参拝だけ眼を三角にして守るのか実に不可解。先月の文芸春秋で加藤紘一が、「最初の参拝時、8月15日を避ければ中国の批判は抑えられる」と進言したのは自分と述べていた。小泉はその進言を聞き入れたが、結局批判は止まない。それを根に持ってたのかねえ。その加藤紘一の実家はなぜか切腹男に放火されて全焼。「靖国」がからむと、物事は呆れるほどこじれる。

靖国問題を巡る本は何冊か読んだが、「靖国問題の原点」(三土 修平/日本評論社)は、「なぜ靖国を巡る問題がここまでこじれたか」という視点から、日本政府、靖国神社、遺族会、GHQなどが絡み合った迷走ぶりを分かりやすく解説しており、なかなか参考になった。

戦没者追悼式は、毎年天皇陛下も出席して政府主催で行われている。中韓はこちらの式典まで批判してる訳ではない。いや、そもそも、戦争を反省し、心ならずも犠牲になった人を弔意する式典を批判するほうが道理を欠く。これは中韓とて承知のはず。「靖国参拝推進派」は、なぜ戦没者追悼式ではダメで「靖国」でなければならないのかを、国民に納得させる必要があるのでは。

しかも、「靖国参拝推進派」が語ると、戦没者の単なる顕彰にとどまらず、「A級戦犯合祀正当」、「東京裁判否定」まで必ず一気にセットになって正しいと語られる現状がちょっとなあ。上記の本は、この辺の問題の実に深い根の混乱をかなり分かりやすく解説している。



個人的には、靖国神社は、行きたい戦争遺族だけがお参りしたらよいと思っている。息子や夫、あるいは父を亡くし遺骨も返らず、そこにしか行きようのない気の毒な戦争遺族は確かにいるのだから。ただし、戦前の「戦意高揚装置」としての性格をいまだに色濃く残す奇妙な存在を、今更、国家護持などできるはずもない。年月と共に静かに風化するにまかせ、復興させることなく眠らせるべきだ。しかし最近、「昭和天皇メモ」が話題になり、「A級戦犯合祀正統」派を激震が襲っている。その点ではよい機会であるから、この際「靖国問題」をつきつめて議論して、政治的にも世論的にも決着させたほうがよいという議論もあるだろう。

A級戦犯合祀は靖国が暴走した愚な判断だった。国民の大多数が納得していた訳ではないのだから。「祭神の決定にはちゃんとした一貫性がある」だとか、「一度合祀したらもう2度と分祀はできない」などという靖国側の主張を聞くたびに感じるのは、この組織は、かって影響下にあった旧帝国陸海軍と同様、自らの間違いを決して認めない頑迷固陋な性質を、なぜか戦後60年の今でも保持し続けているのではないかということだ。

「分祀」が不可能という「ローソクの炎論」にも理解しがたいところがある。そもそも厚生省から送られた神名票を元に「霊爾簿」に記載して招魂式をやると祭神が増えてゆくというが、日本古来の神道にこんな形式がある訳ではない。明治になって招魂社として始めた習慣にすぎない。もっと遡れば、そもそも神道には、教祖もおらずはっきりした経典すらない。教義がはっきりしてないのだから、要するに「靖国」がそう考えているというだけの話。

「霊爾簿」から抹消して、再び離魂式をやると魂が去って行かれると考えても、別段何の不都合もなかろう。経典に反する訳でもない。ただ不可能だと言い続けるのは、自分に都合のよい部分だけ神道の理論を援用し、自分の間違いは絶対に認めないという頑迷固陋な態度にすぎないと思うのであるが。

もしも靖国神社全体を、戦犯うんぬんとは関係なく、戦争で亡くなった軍人だけを祀る施設にできるなら、ずっとすっきりするだろう。もっとも、その時々の適当な判断で、戦犯に限らず、様々な死者がすでに合祀されている。A級戦犯だけが問題なら解決の道も探せようが、ここまで複雑にこじれてしまうと解決の道は実に迂遠だ。といって、ガラガラポンと初めから靖国は無かったことにして、新しい国立施設作って、それで皆納得行くのかもねえ。これまた難しい問題。ま、議論はすべきなのかもしれないが。