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2006/05/26 嫌「嫌韓流」

こちらの旭書店にも、「マンガ嫌韓流」、そしてその続編、あと何やら知らんが「ガイドブック(?)」なるものまで平積みで売っている。しかしまだ売れてるのかね。

「嫌韓流」は一度買って読んだ。読み返す価値はないと判断して捨てたから、もう手元には無いが、今でも印象は変わらない。言論として価値が無いと思った理由が2つ。

ひとつは、naiveにも「2ちゃんねる」での書き込みを鵜呑みにして、そのまま自分の論拠として使っている点。匿名での無責任な書き込みは、反論が無いからといって事実と限らない。基本的に情報としての価値がない前提で扱うべきだ。百歩譲って、そこに書かれていたことが事実だと後で証明されても、それはただ単に運がよかっただけ。言論の材料として使ってよいことにはならんだろう。「便所の落書きで天下国家を語るな」、それが感想の第一。

2つめは、表現が公平さを欠き子供じみていること。漫画の中で韓国人との論争が出てくるのだが、日本人だけは格好よく、韓国人はあばた面で醜く描かれている。そして論争は常に日本側の一方的勝利に終わり、韓国人は、「うぐぐ」「あわわ」と醜く顔を引きつらせて論争に敗れる。

実際の議論では、正しいほうが常に勝つとは限らない。しかし、それでもなお、我々が頼るのは結局のところ言葉しかないのであり、我々は公正を重んじ、相手も尊重しつつ議論をしなければならない。それが文明社会の最低限のルールだ。しかしこの本での論争はすべて著者の「脳内」で行われている。著者が勝つのは当たり前で、勝った勝ったと「脳内」の論争結果を喜び、やり込められた相手を醜く描くのは、到底「fair」な姿勢ではなく、むしろ幼児じみた愚行である。これもこの本に価値が無いと感じた理由。こんなひとりよがりの心性というのは、その昔、「神国ニッポンは、大和魂と神風で必ず勝つ」そんなことを信じた愚かな人々と、なんとよく似ていることか。



同じ類の「fairness」のなさは、昔、「ゴーマニズム宣言」にも感じたことがある。小林よりのりは、エイズ薬害事件の川田龍平を、自分が応援している時はハンサムな好青年に描いたが、立場を異にし争うようになると、アバタ面で醜く、かつ卑しい目つきの青年として貶めて描いた。

例えば、論敵の名前を書く時、必ず枕詞に「卑しく醜いXX君は」とつけた文章があれば、それをまともに読む気になるだろうか。文章であれば便所の落書き以下として路傍に打ち捨てられる態度が、漫画なら立派に通用する。それはやはり、小林よりのりと、その著作に手を打って喜ぶ人々の程度が実に低いからと言うしかない。それ以来、小林よりのりが何を書いてもまともに読む気にすらならない。



日本では最近、妙に右傾化した言説が目立つようになった。私自身は個人的に、昔から左翼思想にかぶれたことは一度もない。大学の経済学で効用学説を知り、マルクス流労働価値学説によらずとも経済社会を説明できることを知った時は実に我が意を得たように感心した記憶さえある。右傾化と単純にひとくくりにできず、傾聴に値する発言があることも知っている。しかし、とても聞くに堪えない、「2ちゃんねる」的、幼児的な右傾化発言がネットにもあふれている現状は憂えざるをえない。右傾化の極北にあった太平洋戦争時の日本なら、お国の役に立たぬ非国民として抑圧されたに違いない、ヒッキーやニート、フリーターのようなヒョーロクダマに右傾化した人間が目立つのは、まるで悪い冗談のような気さえするのであった。「嫌韓流」に、とても存在意義があるとは思えないのだがなあ。