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2005/11/17 「夕凪の街 桜の国」〜「ヒロシマ」を巡る物語

「夕凪の街 桜の国」(こうの 史代/双葉社)読了。昨年度の文化庁メディア芸術祭大賞受賞作品で話題になり、かなり版を重ねている。Amazonでもカスタマー・レビュー142本でお勧め度が☆5つというのが凄い。既に読んだ人も多いだろう。マンガはほとんど読まないので、恥ずかしながら今まで気づかなかった。

いわゆる「ヒロシマ」体験を中心に据えたマンガだが、淡々とした描写ながら深く心を打つ珠玉の作品に仕上がっている。帯に「マンガ界この10年最高の収穫」とある文句も確かにうなづける。

3連作を1冊に収めているのだが、第一作の「夕凪の街」は、終戦から10年経った広島が舞台。父親と姉妹を原爆で亡くし、母と暮らす若い娘、皆実が主人公。彼女の淡い恋と、時を越えてフラッシュバックする爆心地の凄惨な記憶。

「お前の住む世界はそっちではない」と囁く過去の亡霊。「わたしが忘れてしまえばすんでしまうことだった」と独白する悲しい諦観。被爆体験を乗り越えて、貧しくとも精一杯生きていると思われた彼女の生命が、なぜあっけなく失われてしまうのか。独白だけが続く空白のコマ。描かぬことによって描ききった主人公の無念、すでに亡くなった姉を思い出して健気に耐えた孤独。そしてそれを押しつぶしてゆく不条理。深く重たいラスト。しかし物語は終わらない。

続く「桜の国I・II」は、皆実の姪にあたる七波とその家族の物語。戦後60年を経てまだ影を差す原爆。ありえたかもしれない未来、失われた夢、世代を超えて受け継がれる運命。七波の広島への旅を通じて過去と現在が随所で見事に交錯し、未来への希望と再生を感じさせる物語として実に鮮やかに成立している。

七波の見た過去の記憶。父親が、満面の桜に囲まれた橋の上で、結婚前の母親、京花にプロポーズするシーン。「生まれる前、そう あの時わたしはふたりを見ていた。そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようときめたのだ」という七波の時空を超えた独白が涙を誘う。

そして、この祈りにも似た未来への希望が描かれる「桜の国」を通り過ぎた時、我々はいやおうなしに再び物語の発端、「夕凪の街」の絶望へと回帰することとなるだろう。著者は後書きで「夕凪の街」についてこう語る。
「このオチのない物語は、35頁であなたの心に湧いたものによって完結するものです。これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思っています」
戦後60年を経て、風化する原爆被災の記憶。我々は何を得て、そして何を失ったのか。この物語の結末に感じる名状しがたい感情こそ、世代を超えて長く記憶される必要があるのだろう。確かに著者の考えた通りに描かれている。

小道具に至るまで細部が細かく書き込まれ、含まれている情報量は実に多い。時制を超えてめまぐるしく場面が変わるが、物語は破綻しない。やさしく淡々とした描写の中にも深く心をえぐる力が潜んでいるのは、やはり著者の力量だ。「ヒロシマ」を巡り数多くの物語が書かれたが、この作品は、人の心を深く揺さぶる力を持った最良の作品のひとつとして、長く人々の心に残り続けるに違いない。出会えてよかった。