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2005/04/13 「自閉症裁判〜レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」

今週初め、
「殺人などの罪に問われた札幌市出身の元建設作業員山口誠被告が東京高裁への控訴を取り下げた。これにより、一審の無期懲役判決が確定した」
との短い報道。先日、この事件を扱った本を読んだところだった。この山口被告とは、いわゆる「レッサーパンダ帽をかぶった殺人者」。

読んだのは、「自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」(佐藤幹夫/洋泉社)。2001年4月、東京・浅草、花川戸の路上でレッサーパンダ帽をかぶった男が19歳の女子短大生を刺殺した。この本はその犯人に対する裁判、そして被害者の遺族と犯人の家族を取材したノンフィクション。

この事件について今でも記憶が鮮やかなのは、この事件が起こる4ヶ月前まで、事件の現場がひょっとしたら窓から見えたかもしれないくらい近くに住んでいたから。ニュースで見覚えある場所が映ったのにはびっくりしたし、その住んでたマンションのオーナーまでニュースでインタビューを受けていた。

レッサーパンダ男は、事件直後からちょっとおかしいのではと思われていた。この本は、この犯人が高等養護学校卒業で軽度の知的障害があり、おそらく自閉症であったこと。しかしメディアはこれを黙殺し、一斉に「中卒」と報道したこと。対人関係に問題を抱え、ほとんど人の目を見て話せない犯人に対する警察の自白調書があまりにも理路整然と犯行を述べていることなどに疑問を呈示する。そして著者の取材により明らかになる犯人の悲惨な家庭。

ロクに働かず、金を浪費し子供を虐待するだけの無能な父親。社会に適応できず定職にもつけない犯人。家計を支えるのは、若くして悪性の転移性腫瘍に襲われた妹。この妹は、倒れた後も、自分の治療費と家族の生活費を稼ぐため手術の合間をぬうように働き続ける。そしてその病気の妹から金や物を盗んで家出するレッサーパンダ男。この妹はレッサーパンダ男の逮捕後、一切の面会をこばんで25歳で病死している。

犯人の悲惨な生い立ちと障害、犯罪を繰り返す社会への不適応。そして逮捕後、「犯人を心神喪失で無罪にしてはならない」という暗黙の了解を感じさせるような警察やメディアの対応。この本で、著者が問おうとしているのは、「この罪に対する罰を問うには、自閉症という障害について社会がもっと理解しなければならないのではないか。そして、社会がどれだけその適応を支援していたのかもまた問われなければならないのではないか」という事だ。

著者は養護学校の教員を20数年務めた経験あり。いわゆる「福祉サイドの人間」と自分を規定する。そして、実に注意深く避けられてはいるのだが、あえて邪推するなら、「自閉症の可哀想な障害者なんだから無罪、社会が悪いんだ」と主張したいのが心の奥底に潜んだ本音とも感じられる。しかし、そういう主張が著者の喉元で止まっているのは、この著者が被害者の家族をも真剣に取材しているからである。

裁判にかかさず出席した被害者の父親は著者の取材にこう語る。
「いつ行っても弁護士だけが同じことを延々としゃべっているじゃないですか。細かいことを持ち出して、殺意は無かった、障害があった、とまるでなにをやっても無罪のようなことを言ってるじゃないですか。だったら殺されたほうが悪いんですか?」
「被害者の人権など知ったことか」という「人権屋」弁護士は、わざわざ被害者をインタビューしたりしない。だから彼らは自らの信じる正義の為に犯人を弁護し、法廷で語りに語って恥じるところはない。しかし、この著者は、娘を殺された両親に真摯に向き合い、両親の血を吐くような痛みに満ちた言葉を真っ向から受けとめ、被害者の両親の立場を理解しようとする。加害者の立場も擁護したいが、被害者の家族に心底から同情せざるをえないアンビバレントな自縛。言葉を無くして立ち尽くす迷いこそが著者の人間としての誠実さを示し、この本の無骨な魅力となっているようにも思える。

障害は犯罪の免罪符にはならない。しかし、障害を持った人間が、犯罪に陥らず他人を傷つけることなく生きてゆけるなんらかの仕組みはもっと考慮されても確かによいだろう。悲惨な境遇にあった犯人の妹は、福祉制度を最大限に活用するならもっと公的な支援が受けられることを支援団体が乗り出すまで知らなかった。このレッサーパンダ男にしても、包丁を持ったホームレスになる前に、収容して保護できる施設はあったはずなのだ。

一審の無期懲役判決は本人の控訴取り下げにより確定。しかし、「無期」は「終身刑」ではない。普通に務めれば彼は十数年でまた社会に出てくる。刑務所には人を真人間に矯正する力などない。まして刑務所で彼の知的障害が良い方向に向かうなどありえない。仮釈放になって社会を自由に歩けば、おそらく彼はまた人を殺すだろう。我々はいったいどうすればよいのか。それが、この本が我々に突きつける問いのように思える。