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2005/04/03 「南京事件「証拠写真」を検証する」

「南京事件「証拠写真」を検証する」(東中野修道他/草思社)読了。南京大虐殺の証拠写真として各種の本に掲載された写真から有名な143枚を選び、撮影者、場所と時期、キャプション、出所などを仔細に検討することによってその真実性を検討するというもの。

「(南京大虐殺の)証拠として通用する写真は1枚もなかった」とは、帯にも本文にも書かれてあるフレーズだが、これはさすがに少々言い過ぎ。確実な反証なく、「おそらく〜ではないか」程度の推定で真実性を疑っただけの写真もある。著者は、南京大虐殺の有無を検証するのではなく、あくまで「証拠写真」の真偽を中立に問うというスタンスを取っているようだが、上記Amazonのリンクから同一著者の本を探すと南京事件の著作が多々あり、やはりなんらかの確固たる立場が反映された著作と見るのが妥当。

しかし、「証拠写真」と称されるものの中に、南京のものと騙すために明らかな作為でトリミングがなされていたり、服装等から考えて、明らかに別の場所か別の時期の写真を南京事件の写真として使っている例が多々あるという主張は納得できる。そして死体が累々と映った写真の中で、「これが南京事件のものだ」と疑いなく信用できる写真は、確かにこの143枚の中には1枚もないように思えるのだ。

南京事件についてはあまり知識がないので断定はしかねるが、非戦闘員も入れて何十万人もが虐殺されたというのが事実ならば、これほどまでに確固たる証拠写真が出てこないのが逆に不思議なほど。

むしろ、明らかに別の場所と分かる写真のマズイ部分をトリミングしたり、別の写真と分かっているもののキャプションをつけかえて掲載している写真をこうまで見せつけられると、「「南京大虐殺は無かった派」は、ゴチゴチの保守反動で人権無視、歴史無視の鬼畜、「南京大虐殺はあった派」は、清らかな心で真実を追究する世界平和を希求する善人揃いの人権派」というステレオタイプな先入観はあまりにもnaiveであり、無条件では成り立たないことが分かる。

確かに、この本の分析をもって「南京大虐殺がなかった」と結論づけるのは適当ではない。写真がなくとも虐殺があった可能性は残る。しかし、「虐殺があった派」の中には、必ずしも「誠実」でも「善」でも「正直」でもない連中が大勢いて、故意に大衆をミスリードしようとしたことがハッキリと納得できる。

この著作では、明らかにフェイクである「虐殺証拠写真」なるものの大半が、当時の中国国民党宣伝部の行った反日プロパガンダに由来するものと分析している。もともと中国のプロパガンダとして始まったものが、戦後日本で一世を風靡した(もっとも最近はだいぶ旗色悪い)「朝日新聞的自虐史観」と結びついて、日本でもその熱烈な支持者を獲得してきたのでは、と考えると実に興味深い。

余談だが、上記Amazonのサイトでは、この本に関する一般読者の様々な感想が「カスタマー・レビュー」として読める。これがなかなか面白い。冷静にこの著作を分析している感想が多いのだが、いわゆる「虐殺があった派」と思われる人達のこの本に対する酷評には、眼をつぶって耳をふさいでイヤイヤをしながら、「それでも虐殺はあったんだ〜」と叫んでいるかのような、感情的で幼稚な反論が多いのも面白いことである。

もうひとつ興味深いのは、この「カスタマー・レビュー」に対する評価。Amazonでは、カスタマー・レビューを読んだ人が「参考になった」「ならなかった」のボタンを押してレビューを採点できる。「虐殺派」と思われる感想には確かに幼稚なのが多い。しかし、そのレビューに対して飛び抜けて多い「参考にならなかった」ボタンが押されている。これは一般の意見がそうだというより、明らかに大量の組織票に思える。「虐殺がなかった派」も、なんだか薄気味悪いなあ。

ネットで「南京虐殺」をキイに検索すると、「虐殺派」にせよ「虐殺はなかった派」にせよ、すでに削除されて消えているサイトが多い。賛否両論で激しい反応があり、なかなかサイトを維持するのが難しい問題であることを示唆しているかのようである。部分的な戦闘行為の行き過ぎはあったが、言われるほどの規模の「虐殺」はなかったという「中間派」も存在するという。「南京事件」については、Amazonで関連図書を何冊か注文したので、もう少し読み込んでみたい。