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2000/11/23 「神はダイスを遊ばない」

「神はダイスを遊ばない」(森巣 博/飛鳥新社)読了。作者紹介によると、森巣氏は、編集者を経て、1975年からカジノ賭博の常打ち賭人を目指して世界のカジノを渡り歩いた国際ギャンブラー。「Casino」を著者は原音に正確に、「カシノ」と表記しているが、辞書によると「カジノ」という発音もあるようだから、どっちでもいいか。

著者は、この本を「ファクション」と読んでいる。「Fact」 +「 Fiction」、つまり事実を巧みにシャッフルした小説とでも言うか。ま、しかし日本固有の「私小説」ってのは、元来そういうもののような気がしたが。

もっとも、随所で披露される著者の賭博に対するウンチクや哲学は、実際に国際賭博の世界で叩かれ、捻られ、転がされ、地獄を見ながらも、したたかに生き残ってきた男の凄みが感じられて、一読の価値がある。

テラ銭を25%も取られる競馬で勝てるわけがないという著者の主張(世界のカジノでは、胴元のカスリはだいだい数パーセントらしい)や、ラスベガスで100分で30億を稼いだ男の話、勝ちきれずに破滅していった幾多の男の話など、あちこちで語られる逸話も実に興味深い。

本の題名である、「God does not play dice.」 というのは、そもそもは、量子力学や不確定性原理が大嫌いで最後まで認めようとしなかったアインシュタインが、「神はサイコロ遊びはしない」と述べた言葉だ。確率など使わなくても、この宇宙にはすべてが予見できる法則があると信じていたアインシュタインの哲学でもあった。

しかし、現在の物理学では、素粒子の動きなどは、ある種の確率をもってしか予見できないのが真理とされているから、そういう意味では、この言葉は、「神はサイコロ遊びをする」というのが正しいのかもしれない。

著者の使ったこの言葉は、だからある意味で誤用であるが、最終的は結論は同じことである。サイコロを何度も振って、出目をグラフ化したら、1の目が出る確率は1/6に限りなく近づいてゆくだろうか。そのような保証はどこにもない。確率は、ただ、毎回の試行の際に、1の目が出る確率は1/6だと教えるだけで、長期的な累積の結果を調整するように働きはしない。

しかし、カジノの賭博人は、その偶然のサイコロの目の連続にある意味を見出そうとする。「1が多くでているから次も1だ」と張る賭人もいれば、「1が続いたからもう1は出ない」と逆に張る賭人もいる。

どちらに転がるかは、神さえもご承知ない単なる偶然に、人間は、のめりこみ、悩み、嘆き、緊張し、怒る。そしてすべてを賭けた大勝負に勝った時の、途方もない歓喜と高揚。著者がここで書いているのは、賭博に取りつかれた人間達のいじましくも雄々しい物語。神様がいようがいまいが、人をとりこにして止まない賭博の不思議だ。

著者はオーストラリア在住だそうだが、本の舞台が国際カジノだけあって、この本に出てくる登場人物は、著者以外はすべて外国人。しかし、登場人物のしゃべる言葉に、「いったい英語ではどういう表現だったのだろうか」、と不思議に思うほど流暢なハードボイルド口調で日本語になっている部分と、なんだか単なる英語の直訳になってるような部分が混在しているのはちょっと不思議。

これが、いわゆる「ファクト」と「フィクション」の部分を判別するカギなのか。もっとも、そういう厳密な文献学的公証をする必要は無いのかもしれない。どこまでが事実であろうと、たいへん迫力のあるリアルな読み物に仕上がっているところが凄い。